備忘録的な日記です。ほとんど独り言ですがお気になさらず。
最近、仏教に・・・・というか、日本人の宗教観に興味があるというか・・・。
そこで「禅語」から入ってみようかと、読みやすそうなの買ってみました。
PIE BOOKSから出してるこの本、結構読みやすかったです。禅語に対しての一般的な解説と筆者自身の解釈が載っていて親しみやすい内容でした。中には本当にそういう解釈なのかな?というところも^^;若干・・・。
一般的な解説文よりも筆者自身の言葉の部分のが良かったのでちょっと拝借。
「宇宙無双日 乾坤只一人」(うちゅうにそうじつなく けんこんただいちにん)
私たちがどんなに「客観」を目指したところで、結局は絶対に主観の外に出る事は出来ない。これは「人間であれば、ものの見方が偏る事は仕方がない」と言うような程度問題ではない。
誰もが、自分が見聞きした事や考えた事を「正しい」と感じている。だが「客観」はあくまで、どんなに頑張っても「主観」が考えた仮説でしかない。その「正しさ」の世界の中にいるのは私一人だけなのだ。
「雲去山嶺露」(くもさってさんれいあらわる)
「傷ついた」という言い方がある。「誇りを傷つける」「心が傷つく」「裏切られて傷つき、誰も信じられなくなった」などのような言い方をする。でも、本当にそんなふうに人を「傷つける」事が出来るのだろうか。傷というのは、そのものの本来の形を変える、と言う事だ。軽い傷跡は消えるが消えない傷跡もある。本来完全であった形を不完全な物に変え、一生元に戻せなくするのが「傷」だ。
私たちが「傷」と呼ぶものの正体は、山嶺を隠す雲のような物ではないか、と私はしばしば考える。雲が山嶺を傷つけることが出来ないように、悲しみや苦しみもまた、人の心や誇りを、本当の意味で傷つけることは出来ないのでは無いだろうか。
悲しんでも、苦しんでも人の心の中心にあるものはもっとどっしりと大きく、ゆるぎない。誰もが自分の中に、山のようにどっしりとしたものを持っている。雲に隠されている時でも、山は確かにそこにあるのだ。
「山是山 水是水」(やまはこれやま みずはこれみず)
悪と善の境目をじっと見ていると、何処が境界線か分からなくなってくる。犯罪事件の詳しい経緯をたどってみると、途中までは犯人のほうが被害者の立場であったりする。朝と夜の境目、季節の境目も「ここが境界線」とはっきり断じることが難しい。
私たちはしばしば、自分と他人を比べて優劣を問う。これは、お互いの差分を見つけ出して区別しようとする、いわば「境界線を引こうとする」やり方だ。そこには、優劣感や劣等感は生まれても、「自分は何者か」という問いへの答えは見つからない。
この言葉は、見つめれば見つめるほど見えなくなる境界線について、ぴしりと「山は山で、水は水だ」と言い切る。「妄想するな」と言い切る。人と人、物と物を比較した「差」によって引かれる境界線は、人間の妄想でしかない、というのだ。
物事の本質は境界線によって決定されるのではなく、そのものの中心にある何事にってかによって決定されている。山は自ら山で、水は自ら水なのだ。
自分自身で絵を描き続けているわけですが、禅語を読んでいると、自分の描く風景画の言葉に出来ていない部分のようなところを、かすめていく感じがすっごく引っかかっています。
ちょっと何か見えてくる感じ。この感じ久しぶり。
もう少し色んなの読んでみようかな。
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